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Trolley.Net Blog

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東西南北

日本国内の鉄道駅名で,東西南北が揃う地名は「浦和」しかないことはよく知られている。さらに中浦和と武蔵浦和もあるため,「○浦和」と称する駅はJR線だけで,単なる「浦和」を含めて7駅になる。それに次ぐのは,JR線では「広島」があるが,東広島は新幹線が開通した1988年から,貨物駅が広島貨物ターミナル駅に改称する93年まで,2つの駅が異なる場所に併存した。北広島駅は千歳線にあるため反則的だが,南を除く5駅が同時に存在した。「梅田」についても,阪急・阪神・大阪メトロの梅田駅に加えて,大阪メトロの東西梅田駅に,計画中のなにわ筋線北梅田駅が加わると6駅になる。加えてJR東西線の北新地駅は,実質的には南梅田と呼んでも差支えない位置にある。

路線名で見ると,東西南北が存在した町は大阪しかない。現存するのは近鉄南大阪線だけだが,現在の阪神なんば線は,1964年の西九条開業時から2009年のなんば延伸まで西大阪線と呼ばれていたし,現在の近鉄けいはんな線の長田~生駒間は1986年から2006年の登美ヶ丘延伸まで東大阪線であった。北大阪線は阪神の軌道線として,野田~天六間を1975年まで運行していたが,路線特許を受けたのは北大阪電気軌道であった。他にも阪急千里線の前身は北大阪電気鉄道であり,1928年に京阪電鉄に合併されるまで存在したし,地下鉄御堂筋線の延伸部分に相当する北大阪急行(南北線)も,北大阪線と呼ばれても不思議はないが,1970年の開業時にはまだ阪神北大阪線が営業中であった。JRおおさか東線(城東貨物線)は2008年に旅客営業を開始しているので,近鉄東大阪線とは時期が重ならない。

国内の地下鉄で一番ありふれた路線名は「東西線」であり,札幌・仙台・東京・京都・大阪(JR)・神戸(神戸高速)の6都市に存在する。「南北線」は京都(烏丸線)を除く5都市に存在するが,北大阪急行と神戸高速(新開地~湊川間0.4キロ)の影は薄い。
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Abandoned Piers

A view of Manhattan from Hoboken, NJ.
ManhattanからHudson川をPATHで横断して辿り着いたHoboken, NJ。水陸運輸の結節点としての意味は薄れたが,今でもFerryの発着があり,New Jersey側のCommuter Rail運行の要となっている。HobokenからHudson川を隔てて見るManhattanの風景には,どこかdéjà vu感が漂う。(2018.2.9)

A wallpaper comes with Windows.
déjà vu感の原因は,2枚目に示すWindows 10の壁紙に違いない。水面から立ち上がる木杭は,かつてここに桟橋があったことを物語る。一般に木材は腐食に弱そうだが,常時水に浸かっている部分は腐らないので,桟橋の撤去に当たって一々抜いたりはせず,放置される場合が多い。しかし壁紙に見るManhattanのスカイラインは,1枚目のものとは明らかに異なる。

Brooklyn Bridge Park ©GoogleEarth
Manhattan島の周辺には,撤去された桟橋の痕跡は幾つもあるが,壁紙の構図は南側のBrooklyn Bridge公園からの光景を捉えたものと推測される。3枚目の画像は,同公園付近の光景を©Google Earthからキャプチャしたものである。どうも地表近くまで視点を下げることは難しく判りづらいが,手前の岸寄りの水面には多くの木杭が残っているのが確認できる。

葵橋

Demachi in 1912 army map
賀茂川に架かる「葵橋」の変遷を地図で振返る。1912年の陸地測量部2万分の1地形図では,ほぼ現橋の位置に「葵橋」が存在するが,賀茂川と高野川の合流点は今より上流側にあり,京電の出町終点の位置から直接柳町側に渡る橋が「出町橋」と呼ばれていたことが判る。この地図の「葵橋」は,1918年9月の台風で流出した後,1956年に現在の「新」葵橋が架橋されるまで復旧されなかった。

Demachi in 1929 city plan map
鴨川の河川改修の結果,旧出町橋は背割堤を介して2橋に分けられた。1929年の都市計画図では,西側の橋が「葵橋」,東側の橋が「河合橋」と命名されている。しかしこの「葵橋」も,1935年6月の豪雨で流出した,と記録される。

Demachi in 1953 city plan map
1953年の都市計画図でも,現在の出町橋の位置の橋は「葵橋」と記載されているが,下に橙色で「出町橋」と付記されている。出町橋がコンクリート橋に架け替えられたのは,翌1954年と記録されるので,この地図の「葵橋」は仮復旧の木橋だったと推測される。現在の下鴨本通(市区改正道路6号線)の上流側には,橙色で「葵橋」の記載がある。

今でも賀茂川左岸側のバス停は「新葵橋」であるが,これは出町橋の位置に「旧葵橋」があり,さらには現葵橋が,台風で流出した「旧旧葵橋」の再建である,という町の記憶を反映したものと言える。

SEPTA Routes 23/45

Chestnut Hill Loop, the North terminal of Route 23, in 1981.
SEPTA 23系統の北端,Chestnut Hill Loopで待機する2748号(奥)と2575号。前者は1947年製のAll-electric(電制車),後者は40年製のAir-car(空制車)で,写真の翌年に廃車の運命だった。1992年秋以降,15-56系統と共に「暫定的に」バス代行とされたが,23-56系統は暫定代行が四半世紀も続いている。23系統の行路延長は41.0kmあり,当時全米で最も長い電車系統として知られ,Germantown Ave.を延々と走る姿が記憶に残る。(1981.9)

23系統の所管は,当時既にGermantown車庫からLuzerne車庫に移っていたが,バス代行後も暫くはGermantown車庫~Chestnut Hill Loop間のChestnut Hill Trolleyや,都心のBainbridge Loopと動物園間の51系統が一部区間を運行した時期がある。これらはいずれも週末のみの観光運行であり,1997年頃までには終了した。

3 car train on Route 45 to Hog Island during WWI.
23系統の代行バスは2016年に系統分割され,Center City以南は45系統を名乗るが,無料乗継制度が設けられている。1970年代には45系統はI-76をKing of Prussia (shopping mall)へ向かう系統に使われていたが,89年の124-125系統への再編に伴い空き番号になっていた。しかし45系統はそれ以上に,第1次大戦期に40-MarketのEl(evated) StationとHog Islandの海軍造船所を結んだ「市電列車」の系統番号として記憶される。

第1次大戦中の1918年から19年に掛けて,PRTは4000形130両と5000形110両の両運車2形式を,市内の有力車両メーカーだったJ.G.Brill社から購入した。4000形は総括制御が可能だったが,5000形は直接制御車だったので,輸送力確保のために4000形が5000形をトレーラーとして牽引する運行が実施された。写真は45系統の3両編成だが,先頭車のみがポールを上げているので,車号は読めないものの,4000形を先頭とする1M2T編成を捉えたものと思われる。(Phila. Municipal Archives)

第1次大戦の終結(Armistice Day)は1918年11月11日であり,造船所自体も21年には閉鎖されたため,これらの両運車が戦時輸送に活躍した期間は短かったが,彼らは最後まで"Hog Island Cars"という愛称で呼ばれることになった。Hog Islandは埋め立てられ,Philadelphia国際空港(PHL)の敷地に含まれるが,そこに至る道路は今でもIsland Ave.と呼ばれる。

銀座町4丁目

「銀座」を名乗る商店街は全国に数多あり,東京の銀座地区に肖って繁栄を願ったものだろう。しかし銀座とは,本来銀貨を鋳造する場所であり,その意味では,これらの商店街に歴史的な意味付けは無い。似たような事例として「小京都」があり,これには全国京都会議なる,関係自治体の協議会が存在する。京都市伏見区にも銀座町があるが,この地名は東京より古い正真正銘の「銀座」に由来し,全国に数多ある〇〇銀座とは一線を画する。

江戸幕府による天下統一以前には,各地で貨幣が鋳造されたようだが,品位の異なる貨幣の併存は商取引に不便であるため,幕府による貨幣の統一が行われた。そのための役所が,1601(慶長6)年に京都の外港であった伏見に置かれ,1608(慶長13)年に京都市内(中京区)の両替町に移転するまで,この地で鋳造が続けられた。京都の両替町(烏丸通の1本西に位置する南北の通り)には,「銀座」という地名は残っていない。

Ginza-cho map
当時は貨幣鋳造が両替業務と深い関わりを持っていたこともあり,伏見でも銀座町を南北に貫く道路は,「銀座町通」ではなく「両替町通」である。さらに言えば,住所としての伏見区両替町は,南から北に向かって1丁目から15丁目まであるが,途中5丁目から8丁目までは欠番になっている。一方,伏見区銀座町は1丁目から4丁目まであるが,これが両替町4丁目と9丁目の間に挟まる形になっているため,実質的には両替町5丁目から8丁目に相当すると見ることができる。

Jizo shrine at Ginza-cho 4-Chome
東京の銀座4丁目交差点は,和光ビルの時計塔に象徴される繁華街だが,伏見の銀座町4丁目は地蔵を祀る祠などがある,住宅と個人商店が混在する普通の町である。かつては京都の街角の町名表示と言えば,仁丹のホーロー看板であったが,盗難の多発もあって,日本郵便のプラ看板に置き換えられている。(2017.1.2)

Trump Tower

Trump Tower at Fifth Avenue, New York.
Trump Towerのある5th Avenueは南行一方通行。56丁目の東北角に当たり,高層建築の多いNew Yorkではとりわけ目立つ高さでもないが,次期大統領選出にあたり,No Fly Zoneが設定された由。(2016.7.10)

A view from I-House.
Chestnut通に面するInternational Houseから,Trump氏の出身校,Pennsylvania大学を望む。南へ延びるのが37丁目で,当時Wharton Schoolの授業が専ら行われていたSteinberg-Dietrich Hallを↓で示す。Penn大も,Trump氏の人格形成には幾ばくかの責任があろう。(1977.8)

熊本城

Kumamoto Castle
4月14日の21:26に発生したM6.5の「熊本地震」は,復元工事が進む熊本城にも被害を与えた。大天守は1960年の復元でオリジナルではないが,屋根瓦が落ちるなどの損傷を受け,石垣も複数個所で崩壊しているが,「余震」が続くため被害規模の確定も難しい。事実,4月16日01:25発生の「余震」の規模は,M7.3と「本震」をも上回るため,こちらが「本震」と後付けされる可能性がある。(2013.5.19)

Toricho, Kumamoto
九州の西側はこれまで,火山性地震はあるものの比較的地震の少ない地域とされて来たが,2005年3月の福岡西方沖地震(M7.0)と言い,「有史以来最大」とされる地震が続いていて,全国どこに居ても地震から逃れることが不可能であることを実感させられる。写真は通町筋から熊本城を見た典型的な観光写真で,電車は現時点の最新型である0800型。軌道敷の芝生化は近年の流行のようだ。(2011.5.22)

熊本市電上熊本駅前ホーム損傷,軌道破断(上熊本駅前~県立体育館前間・段山町~杉塘間),交通局前歩道橋照明灯倒壊,動植物園入口~健軍交番前間軌道陥没4/19始発から神水・市民病院前以西で折返し運転,4/20始発から全線復旧
熊本電鉄北熊本駅ホーム一部損壊等,御代志駅・須屋駅・亀井駅ホーム地割,北熊本~亀井間跨線橋(国道)沈下,線路脇ブロック塀倒壊(数カ所),架線吊り外れ(多数),軌道ズレ(黒髪~藤崎宮前間・坪井川公園口~打越間),池田駅ホーム石積みの一部倒壊4/18始発から藤崎宮前~御代志間運転再開,4/23午後から上熊本~北熊本間運転再開

秦始皇兵馬俑博物館

Qinshihuang's Terracotta Warriors Museum - Outside
東京国立博物館を皮切りに「始皇帝と大兵馬俑」なる特別展が,全国3ヶ所で開催される。紀元前220年頃に築造された始皇帝陵の副葬品とされる夥しい人馬像は1974年に農夫により発見され,1987年に世界文化遺産に指定された。現在は3つの「兵馬俑坑」が秦始皇帝陵博物院の一部として公開されているが,写真は最初に発掘された第1坑の上屋。

Qinshihuang's Terracotta Warriors Museum - Inside
兵馬俑坑は全体を体育館のような建造物で覆われている。写真は第2坑の内部だが,東京国立博物館の解説ページによれば,今回展示されるのは人馬合わせて16体に限られるらしいので,やはり現地のそれとはスケールが違いすぎる。(2013.11.3)

Efate Island, Republic of Vanuatu

Inside market, Port Vila
2015年3月13-14日に南太平洋史上最大級のCyclone Pamにより被害を受けたバヌアツ共和国は,大小80余の島から成るNew Hebrides諸島を領域とする。人口は24万人余りで,首都Port Vilaには約4万5千人が居住する(2009)。

バヌアツは太平洋プレートがオーストラリアプレートに潜込む位置にあるため,世界有数の地震多発地帯であり,自然災害リスクの最も高い国と評価されている。写真はPort Vila,Lini Highway沿いのマーケット内部。(2003.8.11)

  • More of Port Vila pictured in 2002-03.
  • Gare du Musée d'Orsay

    Ministere de l'Education Nationale
    UNESCO本部は7区の南西の境界に位置するが,フランス政府のcounterpartとなる国民教育省は中心部に位置する。1776年竣工の古い建築物で,日本の文科省が入居する虎ノ門の合同庁舎7号館とはだいぶイメージが異なる(もっとも交差点に面する旧館部分は保存され,文化庁が使用)。正式名称は「国民教育・高等教育・研究省」(Ministère de l’Éducation nationale, de l'Enseignement supérieur et de la Recherche)だが,日本の文科省の英語名称は「教育・文化・スポーツ・科学・技術省」(Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology)であるから,名称が長過ぎる点は共通している。

    Gare du Musee d'Orsay
    7区セーヌ川左岸のオルセー美術館は,フランス南西部への列車が発着するオルセー駅(Gare d'Orsay)として1900年に建設されたが,長距離旅客ターミナルとしての役割は40年弱で終わり,旧駅舎は1986年に美術館に転用された。しかし地下ホームは近郊線の駅としては機能し続けており,1979年には西隣のアンヴァリッド駅(Gare des Invalides)と接続されて中間駅となったが,RER C線のオルセー美術館駅(Gare du Musée d'Orsay)として現役である。(2014.9.11)

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